足場の歴史1 (丸太足場から鋼製足場の時代へ)
丸太に代わって鋼製足場はいつごろから使われ始めたのですか
(2014年7月1日 掲載)
足場の歴史は古く、エジプトのピラミッドや中国の万里の長城にも足場が使用されたといわれています。
足場の原型は、泥のレンガや砂礫を積み上げただけの簡単なものから木材や竹を加工した現代の足場につながるものまで様々でした。
日本では、木材が身近なところで容易に入手できたことから、建築材料として重宝されただけでなく、古来、丸太足場や木製脚立として広く使用されてきました。
江戸時代の浮世絵師、葛飾北斎の作品「富嶽百景(三編)足代の不二」には、こてを手にした左官職人が丸太足場の上で地上の作業者から漆喰を受け取る様子が躍動感あふれる構図で描かれています。
また、羽柴秀吉の姫路城築城の様子を再現した歌川貞秀の「真柴久吉公播州城郭築之図」は、城という当時の「高層」建築物にも丸太足場が不可欠だったことを物語っています。
軽くて加工しやすく比較的丈夫で、構造材としても強靭な木材は、自然界に存在するもののなかで申し分のない建築・仮設資材でした。
ところで、1900年代の初め、欧米では鋼製の足場が登場し、次第に木材に取って代わるようになります。
丸太は、鋼材のように材質が一定ではなく、しかも使用による強度の低下が大きいため、強度の計算に不向きで安心して使えなかったのです。
遅れること半世紀、日本でも鋼製足場の時代が幕開けします。
仮設工業会のホームページによると、1950年代に入ると、森林資源保護の観点から林野庁が木材資源利用合理化推進運動を唱えるようになります。
とくに木材の消耗が甚だしい仮設設備がやり玉に上がります。
そこで1953年春に大手建設会社の技術者の集まりで鋼管足場の研究会が発足し、その後、単管足場の緊結部に用いるクランプが開発されます。
そして1954年、東京大手町の東京産業会館の建築工事に日本で初めて、単管足場が用いられます。
当初の単管足場は、丸太を鋼管に、丸太を結束する番線をクランプに変えた形式のものでした。
そのころ、アメリカでは、デイビット・イー・ビティ氏が考案した鋼製足場、いわゆるビティ足場が広く普及していました。
鳥居型の建枠を縦方向に積み重ねるとともに横方向を交差筋かい(ブレース)、鋼製布板につなぐ足場で、高い強度が評価され、アメリカ国内だけでなくヨーロッパにも技術輸出されます。
この足場が1952年に輸入されます。
その技術を基に翌年5月、日本人の体格に合った国産の足場が開発されます(1955年にはアメリカのビティスキャホード社と技術提携した日本ビティ(株)が設立)。
それが、今日、中高層の建築工事に広く用いられているわく組足場の原型になります。
わく組足場のことをビティ足場とよぶのは、こうした経緯によるものです。
こうして、1950年代、鋼製足場は黎明期を迎えます。
以降、わく組足場は、建設現場で標準的な足場となり、次第に丸太足場を駆逐するようになります。
しかし、こうした足場は低層住宅建築工事の現場では、奔流なることはありませんでした。
狭あいな敷地、深い庇などに特徴づけられる日本の住宅建築現場では、こうした足場は使いづらく、丸太足場のフレキシビリティ(柔軟性)や手軽さに取って代わることができなかったのです。
(文・松田)